ただ、偶然かもしれなかったあの瞬間

「ほら、お前も挨拶をしなさい。」
その人は、父親の後ろに半分隠れるように立っていた。
その人自身も背が高くて、しかもずいぶんやせていたから、余計に細長く見えた。
「凌公績です。これからお世話になります」
彼が前に出てぺこりと頭を下げると、結い上げた髪もぴょこりと揺れた。
……これは私の記憶違いかもしれない。当時の彼がどんな髪型をしていたのか、実は全く覚えがないのだ。彼はいつも髪を高く結っているが、この頃からそうだったかは、わからない。
それでも、やせていて、背が高いなあと思ったことは確かだ。うらやましい、と、声に出さずに視線だけを向けたことは、よく覚えている。
「ほら陸遜、お前も挨拶をせんか」
「はい。私は陸伯言と申します」
私も呂蒙殿の陰から抜け出て、手を合わせて一礼した。彼がこっちを覗き込む。覗き込まないといけないほど、背丈が違う。
「そんなちっこいのに、もう成人してるんだ? あんた、すごいね」
そうやって言う彼の言葉は、普段かけられる言葉達と同じ響きだ。言われ慣れている、だからもうなんとも思わない。
「……それは、どうも」
だからいつも通りに返した。
私はいつも通りだと思ったのに。
「ま、あんた、年も近そうだし、よろしくな」
そう言って差し出された右手が、決していつも通りではなかったから、一瞬なにが起こったのかわからなかった。
「よ、よろしく、お願いします」
気がついたら手が取られていて、慌てて言葉を返した。

彼にとっては、挨拶周りをしたたくさんの中のひとりかもしれないけれど、私にとっては、初めて手をとってくれた人だ。
彼がなんの思惑もなくとったであろうその行動が、私には、きっと、とても嬉しかったのだと思う。
今でも、こうして思い出すくらいに。