誰にもいえない、こんなことは。そう、あなたにも

なにを話したらいいかわからない。
なんとなく気まずくて、それだけを理由に、私は彼を避けている。

私はなにを言ってしまったのだろう。彼に話して、それでどうにかなる話ではない。それはわかっていたはずだった。自分のためだけに、自分が楽になるためだけに、それを口にした。はっきりと形にして初めて、不安の原因を知った。
まだまだだと、未熟だと、そう思う。口にしないまま、気がつくことができればよかったのだ。言葉にすることで許されるなんてこともない。彼に告げさえしなければ、彼が気に病むこともなかった。
いや、それも違うか。彼に心配をかけたことを悔やんでいるのではない。彼に知られたことを、恐れている。今度はちゃんとそう、思い当たった。
なぜ、彼だったのか。誰にも明かしたことがなかった、自分でもはっきりととらえていなかった不安を、なぜ彼だけに明かしてしまったのか。それも、今ならわかる。
共感と、同情からだ。そして私も、同じものを求めた。

あれから一月がたった。
部屋にこもりきっていた彼は、十日ほどたってついに部屋の外に姿を見せ、今では以前と同じように城の中を歩き回っている。心の整理がついたようだった。調練に顔を出すようにもなり、鍛錬にも励むようになったと聞いている。
私は彼の姿を見かけることはあっても、私から会いにはいかなかった。彼も彼で、私のところに来たりはしない。だから私が彼について知っていることは、全て他人から聞いた話だ。うわさ話も多く信憑性も定かでないそれを、なぜか聞き逃せない。そもそも私たちは同じ国に仕える身であっても、そう近い立場にいるわけではない。お互い、相手のところに顔を出しに行くような仲でもない。ただ、私が、比較的年の近い彼を、第一印象だけをもとに勝手に好ましく思っていて、そして勝手に共感と同情を抱えているだけだった。
彼になら不安を打ち明けてもいいとすら思い始めていたのだから、彼にとっては全く迷惑な話だろう。自分のこと、家のこと、彼にこれからのしかかるであろう責任の重みでいっぱいいっぱいだろうに、全く彼には関係のない私の不安までそこに上乗せされたのだから。
だから、忘れてくれればいい。心の整理の過程で、私がこぼしてしまった言葉など、隅に寄せてなかったものにしてしまってくれればいいのだ。私からそう言って蒸し返してはいけないから、私はただ、それを待てばいい。

思考はつらつらと流れていく。ふと意識を戻すと窓の外は一面の曇り空だった。雲はどんよりと黒く、もしかしたら近いうちに一雨くるかもしれない。
窓際で書を開いたままにしていてはいけないと、書を片付けようとした、そのときだった。
「あっ、やっとこっち向いた」
机を挟んで向かいに、しばらく見なかった顔が、頬杖をついていた。
「一雨きそうだよって、さっきから言ってんのに。聞こえてた?」
そう言って私の目の前でひらひらと手を振る。
凌統殿だった。
「……うわあ!?」
一拍遅れて、ようやく声が出た。ついさっきまで考えていた相手が目の前にいる。しかも今来た様子ではなく、頬杖なんかついて、ずっと前からいたみたいに、正面に。思考が追いつかない。
「あれ、本当に気がついてなかったわけ?」
「は、はいっ、すみません! あのっ、なにか、用件でも?」
頭も回らなければ口も回らない。さっきまで考えていたことが、伝わってしまっていたらどうしようかと、そればかりがぐるぐると脳内を駆け巡る。
「いや、降りそうだなあと思って中に引っ込んだんだけど、そしたら陸遜が窓開けっぱなしのままでいたから。入口から呼んだんだけど聞こえないみたいだったし、なんか考えてるっぽかったし、考えてる陸遜ってぴくりともしないんだなあと思ってて」
「そっ、そうなんですか? そんなに考え込んでるつもりはなかったんですが」
「俺が来てからずいぶん経ってるし、相当考え込んでたよ。ま、とりあえずこの辺片付けるかい? 雲行きも怪しいし」
会話を切ってくれた彼に、心の中でだけ何度も感謝して、せっせと書を丸めた。高い棚に納まっていたものは背の高い彼に任せて、私は低い段に書を戻す。そうして書庫を歩き回っているうちに、ついに雨が振り出した。
「陸遜、さ」
雨の音がぽつぽつと響き始める中、彼が口を開く。書を納めた手を止めて、私はその場に固まった。声の調子が違うから、先程の世間話とは違う種類の話だと勘付いた。
「この間、俺のところ、来てくれただろ。あれ、……ありがと」
押し出すように、さっきうまく口が回らなくなった私のように、彼はゆっくりと話す。
「陸遜、あのとき、なにか言ってたよな。俺、それがわからなくて……だから、陸遜が今でももし、あのとき言ったことを気にしてるんだったら、俺、今なら訊けると思うんだ。もう大丈夫だから。だからなにか、あのとき、困ってることがあったんじゃないの?」
……ああ。
あなたは遠くにいるから大丈夫だと思っていたのに。
あなたには迷惑をかけたくないと思っていたのに。
あなたには、あなたにだけは、私の不安を拾って欲しくなかったのに。
そんな風に言ってくれるあなたに、私は甘えたくてしかたがなくて、でもそんな風に言うあなただから、甘えるわけにはいかないんだ。
「……そのままの意味ですよ。私は、忘れてしまったみたいです」
振り返る。彼はまっすぐ、こっちを見つめてくれていた。
「陸氏一族を復興させたい。それだけを願って、ここに来たはずでした。それなのに、私はもう、一族が討たれたときの痛みを忘れてしまって、戦の日々に明け暮れている。……だからきっと、散っていった彼らから、もう許してもらえないと、そう思うんです」
ゆっくり、ゆっくり、私も言葉を並べた。嘘ではない、彼に対してあの日投げかけた不安そのもの。あれから一月、自分の中で形を成して、言葉にできるようになったものだ。だから、これは、もう、清算できたことなのだ。彼が背負っていてくれたかけらと合わせて、これからなくなっていくもの。だから彼に話してしまって問題ないと思った。
「そういう、私の不安だったのです。すみません、こんな話」
「いや、謝ることじゃ、ないよ……。俺の方こそ、ごめん。陸遜が悩んでるのに、俺、自分のことで精一杯で、訊いてやれなかった」
神妙な顔をした彼がそう言う。謝るべきなのは、余計なことをしたのは、私の方なのに。
「だけど陸遜、そうやって、思い出したんだろう? また自分の願いとか、そういうの、思い出したんだろ? だったらそれで、いいんじゃないの」
彼が私を励まそうとしているのがわかる。でも、だから私は、動けない。動いてしまわないように、ただひたすら耐える。彼が並べる言葉は、私には優しすぎて、甘えたくなってしまう。甘えては、いけないのだ。自分と同じ、大切なものを失った彼、だからこそ。
「俺も、思い出したんだ。絶対に仇をとってみせる。だからそのために強くなりたいんだ」
震える声だった。彼の傷がいえるにはまだ時間が足りないだろうに、彼はそう声を張る。まるで、自分に言い聞かせるみたいに。
だから、私の声がもし震えていたとしても、さっき口にした不安だと受け取ってくれればいい。
「私も、強くなります。負けないように。忘れないように。成し遂げるために」
そう返して、二人、震えを隠すみたいに、ちょっと笑った。

本当に怖いことは、恐れていることは、あなたにこの気持ちが知られてしまうこと。
あなたに伝わってしまわないように、でも大切に抱えておきたいと、そう願った。