「ねぇ。その痛みはやっぱり、くるしいですか?」

扉の向こうに人が立っている。立ち尽くしたまま動こうとしない。
俺は部屋の隅にうずくまったまま、動けない。そのまま、立ち尽くしている誰かの気配だけを感じている。
涙はもう枯れてしまったらしい。心臓を掴まれたみたいに胸はぎゅうぎゅうと痛み続けているのに、どんなに絞ったってもう一滴もこぼれない。こんなに苦しいのに、こんなに悔しいのに、どうしてだ。思いが尽きてしまったような気がして、俺の思いが足りないと、俺の思いなんてそんなものなのかとまで思えてくる。
そうじゃないって、どんなに泣いても涙は流し足りないはずだって、振りしぼるみたいにまた胸をぎゅうぎゅうと押さえつける。違うんだ。俺の思いはこんなもんじゃない、こんなもんで終わる思いじゃない。だってこんなに悔しいんだ、ねえ、聞こえてるでしょう。届いてるでしょう、父上。
扉の向こうの誰かはずっとそこにいる。それが誰なのか、来たときからずっとわかってる。俺より小さな人間の気配なんて、この城でそうそうあるもんじゃない。ただ、俺は、ずっと動けなくて、扉の向こうの誰かも、ずっと動かなかった。
ぎゅうぎゅうと胸を押さえつけて、膝に顔をうずめたまま、そこからしばらく、記憶が途切れている。

暖かい毛布の気配がした。
目を開けたら、優しい手が頭を撫でてくれると思った。幼い頃に熱を出して寝込んだ日、そうやって俺の頭を撫でてくれた手は、大きくて、ごつごつしていて、優しかった。やわらかい毛布と優しい手のひらに包まれて、そうしてまた眠りに落ちる、あたたかい記憶。
そんな気配を感じて、目を開く。期待していた手の感触はなく、俺ももう幼い子供ではなく、ようやく見慣れた高い天井が俺を見下ろしている。突きつけられた現実は薄暗くて、また胸が苦しくなる。息をつくと同時に、目の端から転がり落ちた。ああ、俺はまだ、干からびてはいないみたいだ。
そのとき、ふうと空気が揺れた。
「凌統殿、お目覚めですか」
横からそっと声がかかった。視線を向けた先には、さっきまでずっと感じていた気配の持ち主が、ちょこんと座り込んでいる。
「りくそん」
干からびかけた身体から声を絞り出す。
「凌統殿」
そう呼んだきり、年下の友人はなにも言わない。こんなからからになってしまった俺をとがめるためにやってきたのだと思っていた。もしくは、そのために誰かに差し向けられたのか。
「凌統殿、」
しかし彼は、なにか言いたそうに、言いづらそうに、口をつぐむばかりだ。
「俺を、連れ出しに、来たんだろ」
ようやく並べた言葉に、首を振って返された。
「じゃ、なに」
「訊いても、よろしいですか」
ようやく口にした俺の名前以外のことばに、俺は、胸の痛みも、干からびて空気の貼りつく喉も、どうにか押さえこんでうなずいた。俺も、陸遜がどうしてここにいるのか知りたかった。どうしてずっと立ち尽くしているのか訊きたかった。この問いに応えれば、それがわかるだろうと思った。
「……くるしい、ですか」
「……うん」
「くやしいですか」
「……ああ」
ぽつりぽつりと向けられる問いに、また胸の痛みがよみがえる。波のように寄せては引いて、思い出すたびに息が詰まる。あの光景を、なにもできなかった自分を、思い出すたびに。
「私は、忘れて、しまって」
「え?」
「苦しくないんです、もう。でも、それが、苦しい」
ぽつりぽつりと落ちる言葉は、まるで息をつまらせているようで、思わず顔を向けた。でも座り込む彼は、床を見つめるばかりで、そこには震えも涙も見当たらない。
「……なんのこと」
わからなかった。そもそも、その年に似合わず気丈に振る舞うこの友人が、こうして言葉を選べずにいるこの状況すら、俺は初めて見たのだ。このときになって、初めてだ。彼は俺の現状を知ってここに来た。それなのに、俺は、なにも知らない。
薄暗い部屋は日が沈むにつれてどんどん闇に飲まれていく。闇が、口をつぐんだ俺たちを飲み込んでいく。
「なんか、よく、わかんないけど……忘れたことが、くるしいの?」
沈黙に耐えられなくて口を開いた。首を振る動きだけがぼんやりと見える。
「私は、忘れてしまったから、もう許してもらえないんです」
闇に包まれたことで、彼はようやく、それを口にすることができたみたいだった。
「すみません、凌統殿、突然こんな話……気にしないでください」
かと思うと急にそう告げて、隣に座っていた気配はさっさと遠ざかっていく。
「陸遜!」
呼んだ声が届いたかも、この暗闇の中ではわからなかった。

おいていかれた部屋の暗闇の中、まだひとりでうずくまっている。
忘れない。忘れたりしない。そう強く願って、忘れないように、ぎゅうぎゅうと胸を締めつける。
その一方で、彼が忘れてしまったものはなんだろうかと、思いを巡らせた。