きみと共有するものは、空気とことばと、それともう一つ

凌操殿が亡くなった。
凌統殿のお父上だ。あの日凌統殿を連れて、挨拶に来た方。
その戦は、凌統殿の初陣だった。そう聞いている。

私はその戦場にはいなかった。城で、その報告を聞いた。
同じ戦場に立ったことがあった。私は彼ら親子が孫呉につく以前から戦場に出向いていて、凌操殿はすぐ戦力に組み込まれたから、肩を並べて戦ったこともあった。息子には兄弟がいないから、仲良くしてくれると嬉しい。戦の後の宴で、そう言われたことを覚えている。
私はまだ覚えている。それなのに、彼はもう、帰ってこない。

間もなく兵達が戦場から帰還し、亡くなった者たちの葬儀が執り行われた。
凌統殿はそれからずっと、部屋にこもりきりになった。
彼の初陣は勝利に終わった。しかし、そのための犠牲は、彼には大きすぎた。いつか父のような武将になると、目を輝かせていた彼を覚えている。
そう、覚えている。彼ら親子のことを思い出すことができる。
では、自分は。
孫呉に仕えることを選び、その一方で江東陸氏の再興を胸に秘めた。だが、剣を振る度に、知を学ぶ度に、私は忘れてしまってはいないだろうか。いつか私を抱き上げて頭を撫でてくれた腕を。大きな背中を。その背中を通して夢を見たことを。

彼はまだ部屋にこもっている。
私は扉の前に立ち尽くして、動けない。特に言いたいことがある、というわけでもなかった。彼はこの扉の向こうで、なにを思っているのだろうか。そう考え込むふりをして、ただぼんやりと立ち尽くす。
励ましの言葉とか、部屋から出て来て欲しいとか、そういうことを言いたいのではなかった。でも、頭では言葉を選ぼうとしている。彼のために声をかけたいのではない。私はきっと、私の問の答えが知りたいのだ。そのために彼に声をかけることは、全く自分勝手なことだった。自ら部屋にこもる彼の領域に踏み込めるほど、彼とは仲良くもなく、図々しくもなれなかった。扉の向こうから漂う気配はピリピリとして、人を近づけまいと部屋を包んでいた。私はその見えない壁に阻まれて動けない。

穏やかな午後はゆっくりとすぎて、やがて西に傾いた日が廊下をあたたかく照らす頃、部屋を包んでいたピリピリした空気が和らいだ。
ある予感がしてそっと部屋を覗き込む。寝台の上かイスに座っているだろうと思っていた相手は、そのどちらにもいなかった。更に扉を押し開けると、ちょうど部屋の隅、壁に挟まれた位置に人影が見えた。
そっと部屋に滑り込み、足音を立てないよう近づく。西日の届かないその一角はひどく寒々しくて、見下ろす影は小さく丸まるように座り込んでいた。そして、寝息。
彼はなにを思ってこんなところにうずくまっているのだろうか。私は彼になにを言いたいと、彼からなにを聞きたいと思っているのだろうか。
ただひとつ、確信を持ってわかっていることは、彼がかつての私と同じように、父親を失ったということだけだった。

西日に照らされた明るい室内の中、光の届かない片隅に、毛布を運ぶ。彼がこれ以上冷えてしまわないといい。彼がこれ以上忘れてしまわないといい。私が忘れてしまった、あたたかい記憶を。
うずくまる体に毛布をかけると、覗いた顔が一瞬緩んだ。