まだ言葉というものに怯えたままのぼくから、

走る。走る。
こんなに急ぐ必要はないはずなのに。

陸遜が山越の討伐に向かうことになった。急な話だ。軍議でその話を聞き、気もそぞろのまま調練を終えて、午後の城内を走り抜ける。
まだ間に合うはずだ。いくら有能な彼でも、そんなにすぐに出発の準備はできないだろう。部隊を引き連れて向かうのだから、準備には数日かかるはずだ。それだったら、こんなに急ぐ必要はないはずなのだ。
それでも、出発前に、今のうちに会っておきたかった。会って話がしたかった。なにを話したいのか、わからないまま。

果たして扉の前に陸遜は立っていた。ちょうど部屋に戻ってきたところにも見えた。呼ぶとこちらを向いて、怪訝そうな顔をする。
「どうなさったのですか、そんなに慌てて。なにか急ぎの用事でも?」
肩で息をする俺を見て首を傾げてみせる。少し見上げる目線。心臓が跳ねるのは走り続けたせいだけじゃない。
「……っ、ごめんっ、ちょっと、待って」
でも今はそんなことより、俺は息を整えるのに精一杯だった。どれだけ走ったのだろう。さほど広くもない城内を、どれだけ急いだのだろう。そうまでして話したかったことは、聞きたかったことは、伝えたかったことは、いったいなんだ?
「凌統殿、まず落ち着いてください。いったん座りますか?」
陸遜はそう言って俺を部屋に招こうとした。
その振り返った身体に合わせて揺れた袖を、俺は掴んでいた。
「……?」
腕を引く力は自分で思ったよりも強かった。袖を引かれた陸遜は不思議そうな顔をする。先と同じく、少し見上げる視線。俺は知っているんだ、その表情はやがて少し緩んで、どうしたんですか、と優しい声がする。だから、それよりも早く、今度は彼の腕を掴んだ。
自分の身体の制御方法が思い出せない。ちょうどよい言葉も、ちょうどいい力も、ちょうどいい距離も、なにも。
「軍師、殿」
「はい」
短い返事。俺が口を開くのを待っている。腕を掴まれたまま、俺の突飛な行動の理由も聞かずに。
そう、だからだ。陸遜がそうだから、俺はここまで走ってきたんだ。この年下の友人は、俺に対してなんとなく優しいときがある。俺の隣で、俺なんかよりよっぽど大人びた顔をするときがある。そうやってふと気づく度に、あたたかい記憶がよみがえる。俺はそれに甘えているだけなのかもしれない。けれど、もし陸遜が俺に対してだけそうであるのなら、俺はちょっとくらいうぬぼれてもいいだろうか。
掴んだ腕を引き寄せた。
力をこめることはできなかった。ゆるく抱え込んだ身体は少し強張って、だけどすぐに力を抜こうとする。そうして、肩の辺りにある頭を、ゆっくりと寄せてきた。
「凌統殿」
「……」
俺は言葉を返せない。この期に及んでまだ、俺はなにを言ったらいいかわからなかった。どんな言葉を選べばいいかわからなかった。名を呼ばれたことに対する返事すら、迷った。そうしてまた動けなくなった俺の腕の中で、彼はなだめるように俺の胸に手を当てる。
「大丈夫ですよ。帰ってきますから」
だから、なんであんたはそんなことを言うんだ。
嬉しくて情けなくて胸がいっぱいになって、今度こそその身体を強く抱きしめた。

あんたは俺をおいていかないでくれって、それだけ言いたかったんだ。