溢れ出てくるのはどろどろとした醜い感情

雨が降っている。

止まない雨から逃れるように、その地を後にした。誰もが足を引きずり歩いていく。決して手ひどく負けたわけではないが、空気はこれ以上ないほど落ち込んでいた。
勝利の代償に俺たちが失ったものは大きすぎた。
やがて雨が上がり、進む道が日に照らされても、気分は一向に晴れなかった。

雨が降っている。
ようやく帰り着いた都もまた雨だった。この分だと二、三日は晴れないだろう。悲報が雨雲となって、都ごと、いや、国ごと覆ってしまったかのようだった。普段は活気に溢れている城も、水の中に沈んでしまったように静まり返る。
そんな沈みきった空気の中、一人、足を止めない男がいる。
あの雨の日を境に落ち込んでしまった城の中で、彼だけがあの日以前と変わらないように見えた。てきぱきと人に指示を出し、言伝にやる人がいなければ自分の足で歩き回る。何度か部屋を訪ねたがろくに相手をしてもらえず、去り際にはほぼ必ず言伝を預かって人を探した。
それは、抱える仕事の量こそ違っても、俺のよく知る、いつも通りの彼の姿だった。いっそ不自然なほど、いつも通りの。

これでいいのだろうか。彼の元にも雨は降ったのだろうか。それとももう雨は上がって、乾き切ってしまったのだろうか。
いつかの自分を思い出す。机に向かう彼の背に、いつかの自分の姿は重ならない。
でも、これでいいはずはない。
「陸遜、ちょっと付き合ってよ」
返事もろくに聞かずに腕を引いて、そのまま部屋から連れ出した。

雨が降っている。
おかげで庭に出ることができなかった。城壁の上も却下だ。どこかで少し立ち話でもできればそれでいいのだ。そのためにわざわざ雨や風にさらされる場所には行きたくなかった。彼を連れて行きたくなかった。
結局、自分の部屋にたどり着いた。忙しいのだからと叱責を受ける覚悟もしていたが、意外にも、彼は大人しく後ろについてきた。日中はいつも通り胸を張って歩いていた小柄な身体は、いつの間にかその覇気を失って、今はただひたすら頼りなく小さく見える。
日の差さない薄暗い部屋に二人分の影が並ぶ。

「忘れてしまいましたか?」
不意に彼が口を開いた。対象のぼんやりした問いかけは、俺たちの間では、共有した一つの昔話に繋がる。
「忘れたりしないよ」
からからに乾くまで泣いたあの日も、そのときそっと寄り添ってくれた人がいることも、俺を支える記憶だ。それは大切に守るべき過去だ。忘れることなんてできない。
「忘れたわけじゃない。俺は乗り越えた。あんたがいてくれたから」
届いてほしい。いつか彼がそうしてくれたように、今度は俺の声が届けばいい。
そう願いをこめて、彼を見据える。威厳を全て捨てて立ち尽くす、その姿の小ささは、まるで迷子のようだった。

「私は託されました。悲しみよりもたくさんのものを、私に遺してくださった。だから私は、失ったわけではないんです」
「抱えきれないほどの期待を、託してくださいました。だから私は、応えたいんです」
「だから私は、大丈夫です」
ぽつり、ぽつりと、言葉が並ぶ。伏せられた目は、どこを見ているのだろうか。追っているのだろうか。いつかの日々を。

「でも、もう少しだけ、一緒にいてくれませんか」

雨が降っている。
落ちた言葉を追うように、洗い流すように、雨は降り続ける。
こんな時でさえも彼は虚勢を張り続ける。乾いてしまったのではない。ただひたすら、溢れださないように、揺らぐことのないように、耐えている。いつかの自分の姿は重ならない。彼と俺は全く異なる人間なのだと思い知る。
そして、彼にとって唯一の弱みをさらけ出すことができる相手、その手を掴んで引き上げる相手、その役目が俺に与えられることはないのだと、そう悟ってしまった。決して倒れない柱、折れない芯が、彼の中に確かにあり続けるのだろう。その柱が強固だからこそ、彼は今立っている。そして、それは、俺じゃない。柱を共に築き、頑丈に作り上げたのは、俺ではない。
彼にとっての唯一の存在は、俺ではないのだ。俺の役目ではなく、俺にできることでもない。
ただ、こうして隣に立って、そうして一緒に立ち尽くす。救いを求めない彼に対して俺ができることと言ったら、それだけだった。

なんて浅ましい。
だって、こんな嫉妬の対象にしてしまっては、あまりにも、失礼だ。