たったそれだけを伝えるまでに

「やめてください」
絞り出した声はひどく冷たく響いた。
「もう、やめてください。気遣いなんていりません。私には必要ない」
「……ふうん。そうやってあんた、一人で強がるわけ」
投げ返された声も思いの外強く、そのことに少し安心して、次の瞬間またそんな自分が嫌になる。悲痛な顔を返されたらきっと返答に困っていた。自分の中にわずかに残った冷静さが、なにをしているんだと叫び続けているのに、私は聞こえないふりをして言葉を投げつけている。ただの八つ当たりだとわかっていても。
「ええそうです。だから一人にしておいてください。私に構うくらいならあなたの隊の面倒を見てやればいい」
まくしたてるような言葉遣いに気がついても、直すほどの気は回せない。戦の前によくある興奮の類、ではない。こんなものが興奮であるはずがない。
「強がるのは構わないけど、せめてもう少し取り繕えないのかい? 指揮官がそんなんで、兵たちが言うこと聞くとでも思ってんの?」
相手の言葉も、肩にかかる髪を払う仕草も、とげとげしくなる。そうだ、いらだてばいい、怒ればいい。そしてこの部屋から出て行ってくれたらそれが一番いい。
「ですから、あなたがここから去ってくれさえすれば私は取り繕いでもなんでもできると、先程から言っているのですが」
「そんなに言うなら絶対嫌だね。絶対どかない」
「私に従えないということですか、凌統将軍」
「ああ。今のあんたには従えない」
いつもは押しに弱いはずの凌統殿は、今日に限って全く引く気配を見せない。いらだちが増す一方で、伝わるようにわざと息をついて見せた。
その一瞬の隙がまずかった。
「捕まえた」
次の瞬間には腕の中に絡め取られていた。
「なっ……なにをするんですか! 離してください!」
「っつ、落ち着けっての!」
押さえつけようとする腕の中でもがく。なんで、なんでそんなことをするんですか。どうして一人にしてくれないんですか。なんで、どうして!
「やめて。離してください!」
――ぱあん!!
振り払った手が乾いた音をたてる。

「あなただって、私をおいていくんでしょう!!」
絞り出した声はひどく冷たく響いた。

「中途半端な優しさだけ遺されるくらいならそんなものはいりません! だから優しくしないで。私に構わないでください!」
滑り出してしまった言葉は止まらずに溢れてくる。言いたくなかった、だってこれでは、まるで。
「私が、私があなたを死に向かわせているのに!」
死なないでくれと言っているのと同じだ。

揉み合いのあとの荒い息遣いだけが幕舎に響いている。
言ってしまった。こんなものは誰にも見られたくなかったのに、一番聞かれたくない相手に言ってしまった。その手を、振りほどいて。
ただ床だけを映して立ち尽くす。どうするべきか、開き直るか、弁解か。いくら知識を溜め込んだって、こんなときに働かない頭脳なんて全く役に立たない。私は今、はっきりと混乱していた。
「……陸遜」
だから、呼ぶ声にとっさに顔を上げてしまったのだ。
手首をまとめて引き寄せられる。両腕を体の間に挟まれて身動きが取れなくなった。
「離して、ください」
「……おいていかないよ」
見当違いな返事が届く。二度も見苦しくあがくほどの気力もなくただ捕まったままのわたしに、あなたから。
「おいていかない。俺は帰ってくる」
背を抱える腕に力が込もって、同じ言葉を繰り返された。押しつけられた胸に響く音がある。……その心音が奪われることを、私がその心音を奪うことを、恐ろしいと思ってしまったのだ。
「違います」
「なに、俺の覚悟が違うっていうの」
「違います、違うんです。私が、勝手に……あなたを死に向かわせておきながら、それが、恐ろしくて」
荒い息が収まればその音がすぐそばに聞こえる。手の届く場所にある。
「こんな様では指揮官など務まらない。あなたの、言う通りです」
生きている彼の体温と心音を感じて、すとんと、肩の力が抜けた。
「……俺の命なら、いつだって、孫呉に、殿に、あんたに預けるよ。ただ、あんたがそう言うなら、おいていったりしない。おいていけるかっての」
背を抱えていた腕が頭に回る。頭を押しつけられて始めて、彼の肩を濡らす雫に気がついた。
「凌統、殿、」
あとはもう、まともな言葉なんか出てきやしなかった。